History

須磨海浜水族園の歴史

日本の水族館発祥の地とされる兵庫県。
須磨海浜水族園はその流れを組む水族館といわれます。

1895年(明治28年)第4回「内国勧業博覧会」の際に、神戸市の和田岬にあった遊園地「和楽園」開設された「水族放養場」(写真は陳列場)

和楽園の水族放養場

神戸に誕生した
日本の水族館、発祥の地

兵庫県が水族館発祥の地であるとされる所以は、1895年(明治28年)4月1日~7月31日に京都市岡崎公園で開かれた第4回「内国勧業博覧会」にあります。当時、神戸市もこれに協力し、和田岬にあった遊園地「和楽園」に「和田岬水族放養場」を開設しました。京都会場では淡水魚のみの観覧で、海に近い和田岬では海水魚の展示が行われました。「放養場」は水族を展示する「陳列場」と、海から海水を引き込んだ「放養池」からなり、そこでも魚を泳がせていたそうです。

1897年(明治30年)第二回「大日本水産博覧会」が神戸市で開催され、和楽園の水族放養場内にあった陳列場を「標本陳列館」とし、放養池のほとりに建設された「和田岬水族館」

和田岬水族館

「日本の水族館の父」飯島魁が設計、
日本初の本格的設備の水族館

2年後の1897年(明治30年)、第二回「大日本水産博覧会」が神戸で開催されました。神戸市は和田岬水族放養場内にあった陳列場を「標本陳列館」とし、放養池のほとりに「和田岬水族館」を建設しました。

インドの建築様式を意識した外観は、「日本の水族館の父」とも呼ばれる旧東京帝国大学理学部教授の飯島魁(いいじまいさお)の設計によるもので、大小30あまりの展示水槽がありました。

館内平面図の中央部には「海底ノ模造景」「岩洞ノ模造」といった記載から、当時でもジオラマ風の展示がなされていたことが伺えます。第一號水槽のイセエビにはじまり、ヒラメやコチといった、主として瀬戸内海でとれる魚介類を展示していました。また、イソギンチャク、イソバナ、ウミウチワ、イボヤギといったサンゴの仲間たちも展示しており、単に魚類やウミガメなど、なじみのある生物以外の展示を考慮していたようです。

水族館建物のそばには淡水と海水の濾過槽と貯水槽をそなえた建物があり、「水族館給水樋管配置図」からも、後の本格的な水族館の装備を備えつつあったことが分かります。これが「和田岬水族館」が日本で最初の本格的設備をもち、水族館を名乗った施設です。この水産博覧会は1897年(明治30年)9月1日から11月30日までの開催期間を終えた後も残され、5年後の1902年(明治35年)4月に水族館は施設ごと湊川神社の敷地内に移設され「楠公さんの水族館」と呼ばれ市民に親しまれましたが、1910年(明治43年)2月に閉館しました。(参考資料:「第二回水産博覧会附属水族館報告」)

1930年(昭和5年)神戸港にて「神戸海港博覧会」が開催されたの際、第二会場の湊川公園に建設された「湊川水族館」

湊川水族館

神戸海港博覧会に合わせて開業し、
戦禍に消えた水族館

和田岬水族館から33年後の1930年(昭和5年)、神戸港にて執り行われる海軍の観艦式に合わせて、「神戸海港博覧会」が神戸市主催で開催されました。この時、第二会場となった湊川公園に神戸市水産会の主導により建設されたのが「湊川水族館」です。

第二会場の様子を当時の新聞記事は「神戸市随一の盛り場新開地に隣り合ってゐるだけに餘興にも随分面白いものがある、藝者の手踊り、海女の鮑取りなど艶ッぽい。こゝは水產館、海洋館、水族館の三つが設けられて魚の棲息状態から漁業に關する總てを見せ、海洋の神秘、一萬種からの貝類の陳列、気象學上の奇現象など誰にでもわかるやう仕組まれ電飾燈スカイ・サインなどで景氣を添へてゐる。」と伝えています。

当時の内部平面図を見ると、入館して正面から左右に分かれ、ロの字型に観覧通路が設けられており、来館者はぐるりと順路を回り戻ってくる構造になっていました。

しかし、湊川水族館は太平洋戦争の激化による影響を受け、1943年(昭和18年)2月に閉館せざるを得ない状況になりました。そして、終戦まであと5か月という1945年(昭和20年)3月の神戸大空襲で焼失してしまいました。

1957年(昭和32年)神戸市立として誕生し、当時東洋一の規模を誇っていた「須磨水族館」

須磨水族館

東洋一の規模を誇った
須磨海浜水族園の前身となった水族館

終戦から12年後の1957年(昭和32年)、神戸市立として「須磨水族館」が誕生しました。当時は水族館前に路面電車が走っており、誘客対策の一環として水族館も神戸市交通局の管轄でした。須磨水族館は国際港湾都市神戸にふさわしい水族館が要望され、開業に至っています。

当時、水族館に入ってすぐにウミガメの水槽があり、その上にはシャチの全身骨格が吊り下げられていました。旧館時代の資料を読み解くと、神戸港へ入港した外国航路の船から、さまざまな生物の寄贈を受けた記録が残っています。現地で船員さんが購入したもの、釣り上げたもの、中には船の浴槽で飼育されながら、遠路はるばる、東南アジア、アメリカ、アフリカなど世界各地の生きものが集まっていました。また、国際都市神戸に立地する水族館のもう一つの特徴として、姉妹都市提携の外国諸都市から生物の寄贈や交換を行った事も挙げられます。現水族園でも展示しているオーストラリアハイギョ(オーストラリア)、チョウザメ類(当時はソビエト)、パイユ(中国)などがそれにあたります。

1958年(昭和33年)には文部省(当時)から博物館相当施設の指定を受け、積極的な社会教育活動を始めました。単に水族館が見世物だけでなく社会教育も担うべきだという、先見の明である出来事でした。当時は「水族館科学教室」と銘打って、小学校などと連携してプログラムを作っていったそうです。

飼育スタッフは日々の飼育業務や社会教育活動の傍らで、調査や研究といったものにも手を抜かず、「東の上野(動物園)、西の須磨(水族館)」といわれるほど、アカデミックな水族館でした。当時のスタッフからは後に大学教授となる方々を輩出していることなどが、その一端を示しています。そして、水族館が30年目を迎えた1987年5月10日にその歴史を閉じ、新たな須磨海浜水族園に生まれ変わることとなりました。

1987年(昭和62年)にリニューアルオープンした「須磨海浜水族園」

須磨海浜水族園

スマスイの愛称で親しまれ、
世代を超えて愛される水族園

開館から30年近くが経過し、施設の老朽化が進んだ須磨水族館(以下、旧館)を、1987年(昭和62年)に完全にリニューアルオープンしたのが現在の「須磨海浜水族園」です。生きものの「生きざま」をメインコンセプトとし、誕生した須磨海浜水族園は、大型水族館ブームの先駆けとして、当時は東洋一とうたわれた水量1,200トンの「波の大水槽」を有する三角屋根の本館をはじめ、幾つかの建物に分かれた分棟型水族館で、大小100余りの展示水槽を備えていました。

「汽車窓式」と呼ばれる展示水槽には「生きざま」に沿った、「身を守る」「食べる」「子孫を残す」などの生物の生態に合わせた展示テーマを全てに貫き、今では主流となっている「生息環境ごと」の展示とは一線を画しています。

新園のオープンに伴い、旧館を所管していた神戸市交通局から、外郭団体である(財)神戸国際観光協会(現(一財)神戸観光局)へ運営を委託され、神戸観光の中核施設としての位置付けがより強調されました。開園2年後の1989年にはイルカライブ館が新たにオープンし、イルカやラッコといった人気生物の導入もあり、入園者が500万人を超えるなど神戸市民を中心とした期待の大きさが伺えます。また、調査や研究といった面でもアジアアロワナの国内初繁殖や、中国から寄贈されたケツギョの繁殖から明らかになった、生まれた時から魚の稚魚しか食べない特異な習性は、後の特定外来種指定へとつながっていきます。

そんななか、1995年(平成7年)1月17日に阪神・淡路大震災が発生し、水族園も大きなダメージを受けました。建物や水槽などは、大震災のイメージ程の被害は免れましたが、停電や断水といったライフラインの断絶により、主に魚類を中心に飼育生物の半数以上を失う結果となりました。また、水族園は避難所や臨時教室の機能も果たし、記録写真からは魚ライブ館で避難生活されている避難者の様子や、近隣の中学校の授業を行う様子が窺えます。被災から約3か月後の4月20日には営業再開を果たしますが、その裏ではスタッフの必死の努力と、多くの水族館からの多大な支援があっての事でした。

震災から5年後の2000年(平成12年)7月には「アマゾン館」が新たにオープンし、世界初のチューブ型トンネル水槽では世界最大級の淡水魚ピラルクなどを360度で観覧することが出来る施設でした。アマゾン館のオープンに伴い、2000年(平成12年)は震災後に落ち込んでいた来園者数を大きく上回りました。

その後、もう一つ大きな節目となる出来事が、2006年(平成18年)に導入された指定管理者制度です。指定管理者制度は公的施設の運営を民間事業者に委託する制度で、神戸市の場合は4年ごとに運営希望事業者によるコンペを行います。1期目の指定管理者はこれまでの外郭団体が運営委託を受けましたが、2010(平成22)年度の2期目以降は民間事業者が運営を委託され、この時点から実質的な「公設民営」での水族園の始まりとなりました。

公設民営となった新たな「スマスイ」では、外来種問題と正面から向き合い、アカミミガメの受け入れ施設として「亀楽園」のオープンや、イルカやアザラシ、ペンギンといった動物とのふれあい体験、夏期に須磨海岸でイルカを泳がせる「須磨ドルフィンコースト」など、次々と新しい取り組みにチャレンジしていく水族館へと変化していきます。

そのほかにも、学術分野の啓発普及への取り組みとして、生物学の分野で世界的に顕著な業績を残した研究者へ授賞する「神戸賞」の創設、最新の生物学を広く知って頂くための「サイエンスカフェ」、身近な自然環境に目を向けて活動する個人・団体への「スマスイ自然環境保全助成制度」「須磨海岸での里海活動」など従来の水族館の枠にとらわれる事のない活動を展開していきました。

そんな須磨海浜水族園もリニューアルから30年以上が経過し、施設の老朽化による劣化が顕著になっていました。そんな折、予てから話が持ちあがっていた「須磨海浜公園再整備計画」が現実のものとなってきたのです。この再整備計画は水族園だけでなく、海浜公園全体の再整備と運営を民間事業者に委託する大掛かりなものです。そのためのコンペが行われ、新たな事業者が決定する事となりました。この事業者が2020(令和2)年度より指定管理を受け、2023年(令和5年)の須磨海浜水族園の「幕引き」と、2024年(令和6年)開業予定の新たな「神戸の水族館」の運営をすることとなります。